今月の法話

平成26年1月

今の一瞬が最期であったとしても

 かつては生まれた瞬間から誰もが一歳だった。私たちは母のお腹の中に命を授かった瞬間に人としての命が始まるからである。だから今のように満年齢ではなくて数え年で年齢を数えていた。人としての命が始まってからの歳月を年齢として数えるから、母の中に守られ育まれて過ごした十月十日も含めていた訳である。そしてみんなお正月に一斉に歳をとっていた。  

  門松は冥土の旅の一里塚 目出たくもあり目出たくもなし

 数え年という年齢の数え方を知っていればこそ、一休禅師作とも言われる昔の狂歌の心をより深く味わうことができる。昨年のお正月から一年を経たということは、冥土へまた一年ほど近づいたということでもある。「歳を重ねるごとに一年一年があっという間に過ぎていく」と言う方は多い。しかし自分自身の臨終もあっという間に過ぎた一年と同じ早さで近づいていることに思いを馳せる方はどのくらいおられるだろうか。

 現代では人の臨終に接する機会が滅多になくなった。天変地異や突発的な事態等により亡くなられるのでない場合において、枕元に付き随って臨終を迎えられる御姿に立ち会う経験がある方は少ないだろう。諸行無常の世に命を授かった限り必ずみな死んでいく。仕事関係やご近所町内の知人だとかお付き合いのある友人などの訃報に接した時にあっても、あくまでも他人事としてしか「死」に向き合っていない。我が事として「自分もいつかは死ぬのだ」ということを折に触れ時に感じて意識することが出来ているだろうか。今日も明日も明後日も、そのまた先もずっと続いていくと思い日々を過ごしてはいないだろうか。

 慣れ、というのは恐ろしいものである。何ごとにおいても慣れてしまうことは疎かになってしまうことに繋がるからだ。もし「生きている」ということに慣れてしまったら、どうなるだろう。「いつか必ず自分も死ぬ」ということを思い知ればこそ、「生きている」ということを実感することができる。そして「生きている」この瞬間を、いかに生きようとするのか、を考えることになる。死を自覚することは生を自覚することである。いま生きていることが大事に思うことができる。そして臨終の夕べまでの時間を精一杯に行き切ろうと思う気持ちになる。

 この私の余命は、あとどのくらいあるのだろうか。
 一日、一ヶ月、三ヶ月、半年、一年、三年、五年、十年、二十年・・・
 一分一秒にいたるまで正確に知っている、という方はおられないだろう。

 もしあと三ヶ月だとしたら、何がしたいだろうか。
 もしあと三年だとしたら、何がしたいだろうか。

 でも、もし明日だとしたら、何がしたいだろうか。

 これをご覧くださっている方ならば、恐らくは何かしらのお念仏のご縁をお持ちの方だろうと思う。 阿弥陀さまの西方極楽浄土にご往生させていただくまでの間、いかに生きてゆくのが良いだろうか。 私たちは楽しい旅に出る時には、出発までの時間にさまざまな準備をすることも含めて楽しんでいる。
 阿弥陀さまのお迎えを頂戴して往生浄土の素懐を遂げさせていただけるまでの時間ならば、しっかりとお念仏を申してゆく日暮らしをしたいものである。

合掌

広島 妙慶院
加用雅信

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