今月の法話

平成27年3月

他力の念仏

二年程前の事ですが、あるテレビ番組で多くの御本も出版されている著名な僧侶の方がこのように申されました。
 「法然という方は日に六万回の念仏を称えたと言われます。これはもう自力の念仏です。」 しかし法然上人は、『念仏の数を多く申す者をば、自力を励むと云う事、これまたものも覚えずあさましき僻事なり。』と申しておられます。
 つまり、「お念仏」の数にこだわって「自力の念仏」だ「他力の念仏」だというのは、お釈迦様の御教えの初歩的な事も解っていない愚かな考えである。私達の「心構え」が肝心であって、数の多い少ないが問題ではない、とお示しくださっているのです。
 「他力の念仏」とは、自分というものをしっかり見つめ「この私はとても罪悪凡夫な者なので、御仏様の世界(浄土)に往けるような者ではない」と気付かされ、「私が浄土に往くには、確かなお救いを頂ける阿弥陀様に全てをお任せするより他にはない」と深く信じ御念仏の道を求めて進んで往く事が大切なのだと申しておられるのです。 つまり、法然上人は、お救い頂ける道を『阿弥陀仏』様の誓いのお力の中に見つけ出されたのであります。
 「お念仏」という誰もがたやすく勤める事のできる行いによって、全ての者が浄土に往く事ができる、『阿弥陀仏』様の誓いの力により「西方極楽浄土」に救って頂けるとお示し下さっているのです。
 ですから法然上人が日に六万回の「お念仏」を称えられたと謳われるのは『阿弥陀仏』様のお救いを嘘偽りのない心で深く信じ、自らが進むべき道は「お念仏」の道以外にはないと受け止められ、全て「お念仏」の中での日暮しをお悦びになられたお姿なのであります。
 それは「称える念仏」ではなく「称えずにはおられない念仏」であり、まさにこれが「他力の念仏」なのであります。南無阿弥陀                                                                  

合掌
                         

北海道第二 慈教寺
嶋中三雄

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