今月の法話
阿弥陀様のみ光
浄土宗の「21世紀劈頭宣言」の冒頭には「愚者の自覚を」とあります。自分の愚かさ、無力さを自覚し、阿弥陀様のご本願にすがるしか救われる道はないと信じるのが他力の教えの根幹です。でも、いろいろな言い訳をして自分を正当化するのもやはり愚か者の常です。「その気になれば自分だってできる」「自分ができないのは周りのせい」と、なかなか認めようとしません。自分が進んでいこうとする道、進まざるを得ない道、それは自分にとって本当にいい道なのかどうか凡夫にはなかなか判断できません。しかし阿弥陀様がしっかりと見守り、導いていって下さると信じ、任せきって安心して進むこと、それが「仏任せ」です。
先日、早朝のお勤めの際、本堂の片隅に朝日が差し込んできました。その光に照らされた板の間のうえにはうっすらと埃が積もっておりました。掃除はしていたつもりなのですが手抜かりがあったようです。光がなければ気づくことがなかった汚れ。いや、自分が気づいたのではありません。光が気づかせてくださったのです。ああ、これが阿弥陀様の無量のみ光なのだなと思わず手を合わせた私でした。
阿弥陀様はどこにおいでるのでしょう。きっと身近なところから無量のみ光で私たちの心の汚れを照らし出してくださっているのです。ご縁があって出会った方々が時に苦言を、時に励ましを与えてくださいますが、それは阿弥陀様が極楽から遣わしてくださった還来穢国の菩薩様のお導きであります。にもかかわらず愚かな私は、諫められて反発し、褒められてのぼせ上がります。実に情けない存在です。
阿弥陀様のお導きを素直に受け入れるためには理屈ではなくお念仏という修行が必要です。安心して人生を全うできますよう、常にお念仏を心がけてまいりましょう。
合掌
愛媛 榮養寺
髙橋宏文