今月の法話

令和元年6月

悦びの中の悦びなり

近年日本に於いて寿命が延び高齢者の割合が高くなってまいりました。私も、昨年「古希」を迎える事と成りました。子供のころを思い返せば、70歳と言えばすごく年老いた人のように見えた事を覚えています。古希とは、唐の詩人社甫の詩に「酒債は尋常行く処に有り、人生七十古来稀なり」との言葉に由来致します。現在では百歳の長寿の方もおられますが、人として生まれ長生きすることだけが尊いわけではありません。お釈迦様は「たとえ百歳の命を得るとも、無上の教えに遇うことなくば、この教えに遇いし人の、一日の生にも及ばず」とおっしゃっています。

法然上人も、一紙小消息の中に「受け難き人身を受けて、遇い難き本願に遇い、発し難き道心を発して、離れ難き輪廻の里を離れ、生まれ難き浄土に往生せん事、悦びの中の悦びなり」と仰せになっておられます。受け難き人間として生を受けるとこは、尊い仏法の教えに遇うためであり、苦しみ、悩み多い輪廻の里を離れて、生まれ難いお浄土に往生する事であると示されています。  浄土宗のお念仏は、極楽浄土を願い、お念仏を声に出して称える口称念仏です。阿弥陀仏はその願い、その声に応えて間違いなくお浄土に救って下さる仏様です。このみ教えに出会えたことこそ私の悦びの中の悦びであります。

合掌

奈良 浄福寺
西 孝温

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